一元論か二元論か  



落合と古市の対談は私も読んだ。文学界の巻頭でこの二人が対談していること自体に軽薄さを感じた。交わされたアイデアの中心部分は上の引用の通りだ。評者は彼らの想像力の欠如を痛烈に批判しているが、私はそこはすんなりと読めてしまった。終末期の延命治療に膨大な医療費がかかるなら、そこは遠慮してもらえると助かる。合理的な政策論のような気がする。私も想像力が足りないらしい。

人間を固有名ではなく数値として扱う社会に対して東浩紀は両義性を見ている。もう少し詳しく東の思想が分かる動画がある。

東は「人間」と「動物」の二元論で考えている。両者は次元を異にしている。國分は同一次元に「人間」も「動物」もいると考える一元論だ。東の哲学的モチーフを聞いた後でも、自分はそのような二元論で考える必要はないという考えを変えなかった。

おそらくパーソナリティの違いなのだろうと思った。東のほうが乖離的・分裂的なパーソナリティなのだろう。だから実存的に二元論を採用している。國分のほうはアイデンティティーの統一感があるので、別の次元を考える必要性を感じないのだろう。

東の批判癖はここでも炸裂している。中沢新一を批判したり、哲学業界を揶揄したりしている。國分はそれに同調しないように気を遣いながらトークを進めていた。東が同業者たちを批判するのは悪癖であり、マウンティングを取ることによって相対的に自分の優位性をフォロワーに対して示そうとする。フォロワーは一緒になって他者にマウンティングできる気がして喜ぶ。そういう不健全な集団を形成しているような気がする。國分はデビュー当初から東の批判癖に対しては抑制を促す立場で一貫している。だから先日のゲンロン社内の問題が起こった時にも國分は静観していた。

この動画を見た東ファンは中沢新一を読もうとは思わないだろう。「読む必要のない本だ」と認識するはずだ。ハイデガーを読もうとも思わないだろう。國分を含むアカデミズムの哲学者からすれば、東のそのような物言いは容認できるものではあるまい。東の言動は結果的に、他者を批判することにより読者を自分ひとりで独占する効果を生んでしまう。

私自身も、東が全部解説してくれるから、自分で哲学の勉強をする必要はないとしばらく思っていた。これほどバッサバッサと有名人たちを批判することができる人なのだから、その東が考えていることが最先端なのだろうと、安直な信用を置いていた。だから東自身の思想がいかなるものかを知りたくて、こういう動画を見たり、本を読んだりしてきた。その結論としては、東の言説は他者を批判するときは切れ味が鋭いが、自分のオリジナルの思想を語るときは非常にまわりくどく、極めて微妙な論理に頼っているということだった。率直に言って期待していたほどのものではなかった。

中沢が「面白いことを言ってみました」的な哲学書を書いたことに対して動画内で東は苛立っていた。しかし、ゲンロン0「観光客の哲学」を書いた時の東の心境はどうだったか。当時の中沢のようなモチベーションで書いたのではないのだろうか。このように東自身もけっこう変節するので、いちいち彼の批判を鵜呑みにしていては無駄に翻弄されてしまう。散々批判しておいて結局自分も同じようなことをやったりするのだ。

東がこんなことを言っている。お遊びでツイッターをやっていた人が、偶然社会問題に触れて、それに関わることになり、その過程で「人間」になっていくということがある。「動物」の層で生きていた人が偶然「人間」の層に連れて行かれる。これを「誤配」という。

私自身がちょうど2018年にそれを経験したのでリアルな話だ。しかし、自分の体験としては「層を移動した」という実感はない。私のうちのある部分が社会化され、より人間的になったという感じだ。主体は二層に分裂などしておらず、「人間」と「動物」は曖昧に同居しており、主体化は連続的に進行していく。それが私の直感だ。私も國分と同じ一元論なのだろう。

カテゴリ: 東浩紀論

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