今年を振り返る(というほどの内容もない)  

 簡単に今年を振り返っておきます。仕事は順調でした。例年よりも仕事量の増減が少なく、閑散期がありませんでした。安定して仕事が回ったのは良かったのです。内容的にも、昨年度のように激しく保護者と対立することもなく、ストレスの少ない生活を送れています。ありがたいことです。
 昨年体重が6~8キロくらい増えて、なかなか減らなかったのですが、ここ数か月で自然に減ってきました。元の体重にだいぶ戻ってきました。これといって努力したわけでもないので、ストレス太りだったのかなぁと思います。昨年や一昨年あたりは仕事でも神経質になることが多く、私生活でも今の鉄筋コンクリートのマンションに引っ越す前は木造アパートの騒音に悩まされていました。引っ越しのときには不動産業者とも喧嘩しました。そういう逐一がストレスの蓄積になっていたのだろうと思います。現住所に引っ越して一年半が過ぎ、生活が安定してきたことで今は気持ちに余裕があります。
 今年度は医学部受験生の生徒が二人いますので、医学部の過去問や入試制度にだいぶ詳しくなりました。来年医学部に挑戦する高2の子も二人います。レベルの高い仕事案件が多くなっているのも幸いなことです。

 今年は過去問研究の合間にだいぶ本も読めました。哲学、批評、科学、教育など。頻繁に図書館に通い、論壇誌や文芸誌を拾い読みしたりもしました。自分なりのテーマや問題関心がはっきりしてきたような気がします。本を読んで適当な感想をネットに書くのが習慣になりました。Twitterはフォロー300人フォロワー500人になっており、まあまあ優良なアカウントと言ってもいいのではないでしょうか。私くらいの中途半端なインテリが一番楽しくTwitterで遊べるような気がしています。本を書くようなプロのインテリになると、SNSはむしろ炎上を恐れて自由に書きにくくなるようです。
 仕事以外の趣味が充実していると仕事案件が減ったりしても気にならず、その分本を読めるからいいやと思えます。自分なりに考えてみたいテーマがあるときは生活の質がとても良くなります。逆に読みたい本がなくなってしまう時期もあります。(私は元々活字を追うのは面倒くさいのであまり好きではありません。)そういうときは大人しく勉強することになります。睡眠障害があるので12時間近く布団の中にいる日が多いのですが、それでも知的パフォーマンスは悪くないと思いますし、自分としては満足しています。

 来年の目標は、問題のある保護者に対しても優しく接してあげようかと考えています。これまでは、子どもに自分のエゴを押し付ける保護者は教師の敵だと認識していました。そういう保護者に当たってしまうと「ああ地雷に当たってしまった」と思い、たいていすぐに決裂して契約終了になりました。それはそれで良いのですが、別にこちらが喧嘩腰になる必要もないのではないかと最近は思い始めています。もう少しコミュニケーションの幅を広げられるのではないかと思っています。

 趣味の方面でいうと、私は何人かの言論人に特に注目しています。東浩紀、橘玲、成田悠輔、安藤寿康、中室牧子など。最近は川上量生もお気に入りです。定点観測していると色々と感じることがあります。一人一人の論客がどういう経緯を経て、どうして今そういうことを言うようになったのかを考えるのは、なかなか面白いことです。来年は特に誰かに注目するつもりはありません。全体を見ていくという感じにするつもりです。

 そんなところですかね。

カテゴリ: 生活

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植原亮『自然主義入門』 ~科学に立脚した哲学への期待  

 私は高校生まではまったく本を読まない人だった。運動部と学校の勉強しかしていなかった。大学に入ってから本を読まなければ駄目だと気付いたが、なぜか全然読めなかった。活字を追うのが遅すぎるし、頭にも入らないし、読んだ内容もすぐ忘れてしまうし。焦りとコンプレックスの塊だった。今から思えば、中学高校まででやってきた「精読」しか知らなかったことが原因だと思う。当時の自分にとっては200ページ以上の本は長すぎた。しかし、40歳を過ぎた今になって、なぜだかやけに早く本を読めるようになっている。だいたい一泊二日で一冊読めてしまう。まあテキトーに読み飛ばすのが上手くなっただけだと思うが、もし大学生の頃からこのくらいのペースで本を読めていれば学者になったかもしれない。就職するのが嫌で嫌で仕方なかったから。

 実生活におけるストレスが大きすぎると本を読むことができなくなる。著者の考えに付き合う余裕がなくなり、自分の心の中にしか関心が向かなくなってしまうからだ。私は長らくそういう状態だった。20歳くらいから日記をつけるようになったが、ひたすら内省していた。一日中でも内省的な日記を書いていたものだ。ちょっと外で人に会って話をしてきたら、そのことについて何時間でも日記を書いていた。とにかく書いて考えを整理し、発展させることが自分には必要だった。本を読んでも数ページで窒息しそうになった。息継ぎが必要で、本を閉じて日記を開いた。そんな調子だからどこの大学院にも受かる見込みはなかった。

 二十代の間はずっとそんな感じだった。本は少ししか読めなかった。読み始めるとすぐイライラしてしまった。日記は大量に書いていた。mixiにも長文の日記を書いていて友人から呆れられていた。ここのブログを書いていたのはほぼ三十代の頃にあたるが、記事の本数は我ながら狂っていると思う。しかし十年単位で徐々に変化してきたのは、書く量は変わらないが書く質が変わってきたことだ。プライベートな日記はめったに書かなくなった。二十年くらいかけて自我の問題がようやく落ち着いてきたということかもしれない。そして、今になって本を読めるようになってきたのもそれと関係があるのだろうと思う。

 植原亮『自然主義入門』を読み返した。去年読んだときは難しくて感想を書けなかったので再挑戦だ。哲学は科学に依拠するべきだというのが自然主義の立場で、そのビジョンやマニフェストを整理した本だといえる。私の感覚から言っても、最も信用できる哲学のあり方だと思う。しかしまだ論客が少なく、日本人で一番有名なのはおそらく戸田山和久であり、外国人だとデネットとかになるが、まだまだ哲学界のスタートアップのような小ささに見える。自然主義哲学は筋が良いと思うが、科学の進歩に依存するので、科学の進歩に期待する人ほど自然主義は相性が良い。しかし伝統的な哲学者たちは「科学では決して分からないことがあり、そこに人間にとって重要な事柄がある」と考えたがる人が多いので、そういう人たちは自然主義には行かないだろう。私が観測するところでは、自然主義に関心を持ちつつも人文学に回帰していく人たちがいる。たとえば吉川浩満とか綿野恵太という批評家がそうだ。彼らは人文業界に自然主義の考え方を紹介した功績があるが、結局のところそれ以上科学に近づこうとはしなかったように見える。あくまで人文学というホームグラウンドに留まることを選択した。どうしてそういう判断になったのか私には分からない。本人たちの性格や資質によるのかもしれないし、商売上のポジション選択だったのかもしれない。対照的なのは橘玲だと思う。彼は徹底して自然主義を採用する論客だ。文学的でもないしリベラルでもない。経済学的で工学的ではあるが、あまり哲学的、倫理学的な印象はない。しかし私が思いつく限り最も成功した「自然主義批評家」だと思う。

 というわけでいきなり本書の後半の議論に入ろう。自然主義によると、規範(倫理)は「工学的問題の解と位置付けられる」。規範を工学的に考えるという発想は面白い。具体的にはリバタリアン・パターナリズムとかナッジと呼ばれる環境設計に結びつく話だ。たとえば工学的に橋を設計、建築するのと同じように規範も設計・構築すべきだということになる。そのためにはまず人間はどのような存在なのかを科学的にできるだけ正確に記述する必要がある。そして、伝統的な哲学・倫理学は人間には到底出来もしない規範を主張しがちなのに対し、工学はできることしか主張しない。だからもし人間のシステム1(直観思考)にはバイアスがあって過誤を起こす確率が高いのであれば、工学的にそれを回避する設計にすることも合理的なやり方ということになる。
 ところで、ネット「自然主義 哲学」で検索するとまず出てくるのは「自然主義的誤謬(ごびゅう)」という概念だ。これは「である」から「べき」を引き出してはならないという教訓のことだ。事実から価値を引き出してはならない。両者は本質的に別物なのだと。



 自然主義では事実と価値は切り離せないと主張するので、自然主義的誤謬を犯しているのではないかと批判されがちだという。これについて自然主義の大物ダニエル・C・デネットはどのように応答したのか。

 なるほど、「である」という主張をいくつか集めたところで、そこから「べし」という主張はすぐには出てこない、というのはその通りだ。しかし、だからどうだというのだろう。むしろこちらとしては、だったら「べし」はいったい何から導出できるのか、と聞き返したいところだ。事実と価値、あるいは記述と規範をそれぞれ別の領域に分けておくことで、道徳哲学が何か完全に他から独立した探究分野だといいたいのだろうか。いいかえれば、道徳哲学はそれ以外のいかなる学問分野からも切り離されていて、そこに見出されるどんな事実にも縛られずに宙に浮いている、とでも主張したいのだろうか、と。 (p199)



 道徳哲学は、人間が現にどのようなものであり、またどんな存在でありうるかに関する事実に応じたもの、つまり人間本性についての一定の鋭い洞察や評価にもとづいたものでなければならない。デネットにいわせれば、もしこれが自然主義というものなら、それを否定できる人などほとんどいないのである。もちろん、事実についての記述から何らかの規範を性急に引き出そうとするのは、短絡的な試みとして厳しくとがめられねばならない。けれどもそれは、自然主義が誤っていることを意味しないのである。



 一読して納得できる主張だ。というか、たったこれだけで論破できるなら「自然主義的誤謬」なんてそんなに大声で言う必要もないのでは?と思ってしまった。最後に「哲学の科学」という構想が紹介されていて面白かったので取り上げたい。自然主義に対する批判として、自然主義では決して解答できないと思われる「哲学的難問」を持ち出してくる人たちがいる。たとえばある懐疑主義者は「培養槽の中の脳」という思考実験を持ち出してくる。それに対して植原がいうには、自然主義はまともに付き合わないほうが良い、その土俵に乗る必要はないと言う。

 しかし、そんな試みはもうやめて、かわりに次のような経験的な問いに向かう方がよい。そうした思考実験をまともな可能性として認める様相的直観は、いったい何に由来し、どんな集団の中で共有され、どのくらいの信頼性があるのか。この課題は、様相的直観を主題とする認知科学的な理論の構築や洗練によって、あるいは多種多様な集団を対象にした質問紙調査の実施――つまり実験哲学――によって、具体的な進展が図られるだろう。そのような取り組みを通じて、グローバルな懐疑論なるものがこの世界の中で生まれてくるプロセスやメカニズムにアプローチすることができるわけだ。
 ここで目論まれているのは、グローバルな懐疑論の発生そのものを人間の認知にしばしば見られる自然現象の一種として捉える、という企てにほかならない。そうしてグローバルな懐疑論を経験的探究の枠内に収め、自然主義の内部に飼い馴らしていくことができれば、わざわざ解決を試みるまでもなく、やがてその土俵にあがる理由が消え去るかもしれない。かりにそうなれば、グローバルな懐疑論はすっかり自然化されて、そのあとは人間の心に生じがちな現象として研究が続けられることはあっても、哲学的難問としての地位は失ってしまうだろう。
 他の難問に対してもこのようなアプローチを試みる価値は十分にある。それは、哲学の徹底的な自然化を目指して、いわば「哲学の科学」を構想する道だ。認知科学などの心を扱う分野では、代表性バイアスや確証バイアスのようなバイアス以外にも、錯視や偽記憶といった、心に見られる興味深い現象を研究の対象とし、その本性に迫ろうとしている。哲学的難問と呼ばれるものも――少なくともその一部については――それに類した発想で取り組むことが有効かもしれない。」 p261



 その具体例として植原は、グリーンの議論を挙げる。義務論と功利主義の対立を二重プロセス理論の観点から説明したものである。「すなわち、直観的に下される義務論的な道徳的判断と熟慮によって導かれる功利主義的な道徳判断とが、ひとりの人間の中でも衝突してしまう、というわけだ。」これもかなり説得的な説明に思われる。

 自然主義哲学には期待しかない。人文的・伝統的な哲学をガンガン削っていってほしいと思う。今の時代、有名な哲学者の概念を継ぎ接ぎするタイプの思想・哲学を信用するのは難しい。科学に立脚することによってしか哲学が社会からの信用を得ることはできないように思う。

カテゴリ: 本の紹介

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ハクスリー『すばらしい新世界』 ネタバレ感想~文明に負ける男たち  

 ディストピアSFの傑作といわれている『すばらしい新世界』を読んだので感想を書く。すべてのネタバレをする。

【設定】
 人間は試験管から生まれる。よって親はおらず、家族もない。結婚も生殖もしない。フリーセックスが奨励されている。パートナー関係は忌避される。「みんなはみんなのもの」。人間は生まれる前から5段階の階級を割り当てられる。知識階級のアルファが最上位で、以下ベータ、ガンマ、デルタと続き、最下位がイプシロンと呼ばれる。下級労働者はクローン技術で効率的に複製され製造されるため姿形が全く同じになる。しかも余計な知性を持たないように知的な成長が10歳で止まるように作られている。また、胎児のときから栄養欠乏状態で育てられるため体も明らかに小さい。しかしイプシロンたちは満足している。なぜならイプシロンで良かったと感じるように「条件付け」されているからだ。要するに洗脳である。胎児期、乳児期、幼児期と一貫して行われる「条件付け」は強力であり、解かれることはまずない。じっさいに本作に登場する人物たちのほとんどは「条件付け」の枠内でしか思考できない。
 本作のもう1つの大きな仕掛けは「ソーマ」という向精神薬の存在である。これは副作用のないドラッグであり、アルファからイプシロンまで公平に配給されている。これを服用すれば必ず幸福感に浸ることができる。例外はない。つまり本作の世界は、フリーセックスと完璧なドラッグが保証されたユートピアなのである。この威力が絶大であるために、人々は世界に疑問を抱くこともなく、批判精神も持たず、宿命を受け入れて幸せに暮らしている。なお、医学の力により老いもなく、60歳になったらぽっくり死ぬように出来ている。死を深刻に考える人は誰もいない。

【レーニナ 性的な喜劇の中心人物】
 主要な登場人物たちはすべてアルファ階級の人たちだ。彼らのコミュニティの人間関係が中心的に描かれている。なかでも印象的なのが本作のマドンナ的存在であるレーニナだ。アルファとはいえ「条件付け」された思考しかできない彼女は、読者から見れば頭空っぽのビッチにしか見えない。「好き=セックス」という単純思考であり、またいろんな男を好きになる明るい女でもある。レーニナだけでなく、この世界の女たちはみんな似たようなものだ。科学技術により育てられた量産型ビッチの一人である。
 レーニナのような女は私たちの現実世界にもいるので、私は共感をもって読めた。分かる分かる、女ってそうだよねと思いながら読んだ。しかし現代的な観点から言えば、このような女性の描き方はフェミニズム的に完全にアウトだろうし、女性蔑視的と批判されうるものだろう。ともかくレーニナは世界を完全に受け入れており、疑問を持っていない。そして作中前半ではマルクスという男と付き合い、後半ではジョンという男と付き合うことになるが、この男たちの批判精神を一つも理解しようとしない。そのことでマルクスもジョンも大いに苛立つことになるし、彼らの運命を悲劇に導くことになる。いわばレーニナは男たちを堕落させる悪女であり、男たちが性欲の奴隷である限りレーニナには決して勝てないのである。そのレーニナは世界システムの充実な下僕なのだから、男たちの批判精神に勝ち目はないのだった。

【マルクス 主人公になりきれなかった男】
 物語前半の主人公。アルファ階級には属しているが何の手違いか身長が低く、根暗な性格も相まって皆から軽蔑されている。マルクスは「ソーマ」を飲まない。自分を失うことを拒否し、みじめな気分を抱えながら暮らしている。その気持ちを分かってくれるのはヘルムホルツという友人だけだった。ヘルムホルツは非常に優秀な作家であり、普段は洗脳に加担する仕事をしているが、自分がすべき仕事はこれではないのではないかと直観している。フリーセックスにも興味を失い、物思いに耽って暮らしている。「条件付け」の外に出かかっているのだ。二人は社会のはみ出し者同士だった。
 マルクスもレーニナのことが好きだった。(レーニナに惚れない人はいない。)レーニナの方も随分寛容な性格らしく、皆から敬遠されているマルクスにも好意的な興味をもつ。デートをするが、レーニナは当然セックスするものと思っている。マルクスはもっと深い話をして分かり合いたい、というか自分の独特な考えを理解してほしいと考えるが、レーニナはそんな話には興味がなく、押し切られる形でマルクスはソーマを服用して肉欲に溺れる。
 マルクスとレーニナは旅行でインディアンの集落に行く。その野生の暮らしに度肝を抜かれるが、そこには白人のジョンという男がいた。ジョンはこの集落で生まれ育ったが両親が街の人間だったため、異端の存在だった。いじめられ、孤立していた。ジョンもまた一目でレーニナに惚れる。マルクスはジョンを街に連れていく。ここから主人公はジョンに移り、マルクスはどんどん卑小な存在に落ちていく。なお、レーニナの関心もマルクスからジョンに移る。ジョンはハンサムだから好きだと言う。しかしそれ以上に、ジョンからの熱烈な視線を感じて舞い上がっていた。
 惨めなのはマルクスだ。差別に苦しみ、ソーマを拒否し、孤立と自意識に悩んでいた。しかしあっという間に堕落し、承認欲求の虜になり、性愛を貪るようになる。最後は島送りにされる。けっきょくマルクスは凡人だったのだ。ヘルムホルツのような知性もなく、思慮深さもなかった。浅知恵で立ち回っただけのピエロだった。虐められて性格が歪んでしまった面もあるだろう。とにかく気の毒なほど中途半端な人物だった。

【ヘルムホルツ 知的な人間は居づらくなる】
 ヘルムホルツには欠点らしい欠点がない。人格も優れており、知性にも抜きんでたものがある。マルクスと友人関係を持つが、マルクスのことを同情の目で見ているところがある。フリーセックスにも興味を失い、思想的に「条件付け」の外に出ようとしている。ジョンが街にやってくるとすぐに意気投合する。ジョンは初めから「条件付け」の外にいる人間だから、ヘルムホルツにとっては新鮮極まりない相手なのだ。ところでこの世界では多くの本が禁書とされている。必要以上の知識は社会の安定を乱すものとして隠されているのだ。いかに有能なヘルムホルツといえども、参照すべき知識がなければなかなか先には進めない。一方ジョンはインディアンの村で見つけた「シェークスピア全集」の知識だけは持っている。それはヘルムホルツにとって衝撃的な内容だった。素朴なジョンはシェークスピアを聖典のように信じており、愛の先には結婚があるべきだと信じている。ヘルムホルツはさすがにそれはあり得ないと笑う。結婚なんて不合理なものはありえないというのがこの世界の常識なのだ。その点はヘルムホルツも例外ではなかった。
 本作の主人公はジョンだが、後で見るようにジョンも極端に走って破滅してしまう。ジョンが持っていたものはインディアンの生活能力とシェークスピアの知識だけだった。それに照らせば街の人々の生活は狂っているように見えた。だから痛烈に批判したわけだが、人々の心には届かなかった。ジョンは街を出る。しかし、その出方はいかにも中途半端なものだった。ジョンもまた大して強い人間ではなかったのだ。それに比べてヘルムホルツは、島送りの命令を受けて静かに去っていく。ムスタファ・モンド統制官によれば、島には知的にすぎる人たちが送られているという。だからヘルムホルツの探究にとってはむしろ好都合かもしれないのだ。本作の登場人物の中で一番救いがあるのは実はこのヘルムホルツだと思う。決して劇的な行動を取らないので小説の主人公とは呼べないが、最も優れた人物は間違いなく彼だと言える。

【ジョン 文明に懐柔された野人】
 街に来たジョンはイプシロンたちの職場でソーマが配給されているところに出くわし、それを妨害する。ソーマを投げ捨てながら、「こんなものを飲むな、自由に生きろ!」と扇動する。その声は彼らにはまったく届かない。最終的に統制官ムスタファ・モンドと思想的な対決をして決裂する。モンドはしあわせのために科学・芸術・思想を犠牲にしたのだと言うが、ジョンは不幸や苦しみの権利を要求する。たいへん勇ましい場面だ。このときジョンは文学を代表して管理社会に否と宣言したといえる。この場面が『すばらしい新世界』で最も有名なシーンなのだろうから、少し引用しよう。

「でも、僕は不都合が好きなんです」
「でも僕は、楽なんかしたくない。神がほしい、詩がほしい、本物の危険がほしい、自由がほしい、善がほしい、罪がほしい」
「僕は不幸になる権利を要求する」

 文学的な人間賛歌だ。本作は1932年の作だが、その後も同じ主張は文学において繰り返し為されている。モンドの理論もジョンの理論も両極端だと思うが、単純な対立ゆえに読者には強い印象を与える。このテーマは現代にもそのまま通じるので、私ももちろん興味を惹かれる。
 さて、統制官との対立がはっきりしたことで街を出ていくしかなくなったジョンだが、その後日談まで書かれている。街を出ていくところで物語を終わりにしておけば余韻が残っただろうが、ハクスリーはそうはせず、ジョンに過酷な運命を与えることを選択した。文学的な価値を高らかに宣言したジョンだが、街を出てもインディアンの村には帰ろうとしない。文明の味を知ってしまったジョンはもはや野生には帰れないのだ。快適な文明的な建築を住まいに定めたり、文明的な食品を持参していたりする。こんなことではいけないと自分に鞭を打ったり茨を抱きしめたりと自らに苦行を課すのだが、文明的な欲望を払うことができない。レーニナの妄想が頭から離れない。じきに街の人たちに見つかり、好奇の目で観察されるようになる。それも街からあまり遠くに行かなかったジョンに原因がある。ジョンは徹底的に決別することができなかった。中途半端だったのだ。ある日街の人たちが大挙して押し寄せてくる。その中にはレーニナもいた。抱き着いてこようとするレーニナをありったけのプライドをかき集めて鞭で打ち、「売女め!」と罵るジョン。ジョンはレーニナに惚れていたが、彼女の振る舞い方はただの肉欲の奴隷であり、文学的ではないし、ジョンにとっては人間として許しがたいのだった。だから当のレーニナから魅力的に誘惑されても必死で拒絶するのである。このときもなんとか誘惑を振り切ることができたかに思われたが、このときは見物客の群衆がおり、彼らの興奮に火が付く。たちまち大狂乱状態となり、ジョンもそれに飲まれて結局ソーマを服用して乱交に興じてしまう。翌日、自らに失望したジョンは首を吊って自殺してしまう。

 結末だけ言えばジョンもマルクスの二の轍を踏んでしまったことになる。レーニナの誘惑に勝てず、色欲に勝てず、ソーマに手を出してしまった。文明を受け入れ、プライドを損壊してしまった。その結果マルクスは(ますます)卑屈になり、ジョンは生きていけなくなった。『すばらしい新世界』とはそういう話だった。ほぼ性愛の話である。だから科学的なSFというより文学的なSFといえる。量産型のレーニナとの間に特殊な性愛関係を期待した男たちが破綻していく物語。そのような恋愛物語として読んでもそれなりに普遍性のあるテーマになっているし、エンタメ小説として成功した要因にもなったのだろう。

【ムスタファ・モンド 】
 この世界を取り仕切っている10人の統制官の一人、西ヨーロッパを統括するムスタファ・モンドは天才物理学者だった。ヘルムホルツがそうだったように社会の欺瞞に気づき、一時は島送りにされそうにもなったという。モンドは科学的な探究をあきらめ、この社会で偉くなることを選ぶ。科学や芸術、宗教の本は禁書となっているがモンドは例外で、それらの本も読んでいる。読んだ上で、この欺瞞に充ちた社会を運営する側に立っているのだ。その理屈を見ていこう。
 まず、アルファからイプシロンまでの階級の必要性について。モンドは過去の実験の話をする。ある島にアルファだけを2万人住まわせて社会を運営させたことがあった。しかし対立が深まり、破滅的な殺し合いに発展。残された住人たちが統制委員会に直訴してきた。自分たちより上位の存在に治めてもらいたいと。この実験結果をもとに、人間にはその役割に相応の能力しか与えないほうが良いと結論したそうだ。
 次に、イプシロンの扱い方が人権侵害ではないかという論点について。イプシロンは毎日7時間半労働しているが、これも実験的に4時間労働にしてみたことがあったという。しかし、余暇はイプシロンたちを幸せにしなかった。ただソーマの消費量が増えるだけで、イプシロンたちの精神は不安定化してしまった。だから、科学的には労働時間を短縮する方策はいくらでもあるにもかかわらず、彼らにはきっちり7時間半労働させているのだと。
 このようにモンドは「エビデンス」を挙げる。イプシロンの問題は現代でいえばベーシック・インカムの議論に近い。ベーシック・インカム批判論者は、人間は労働していたほうが幸せなのだと主張する。労働しなくていいと言われても何もすることがない、したいことがない、できることがない人が大半なのだと言う。これについては空中戦の議論ばかりしていても仕方ないので、小規模の実験がこれまでにいくつか行われてきた。ベーシック・インカムを導入したことによるネガティブな結果は報告されていない。それでも実現しそうな社会的雰囲気はない。我々人間の多くは、余暇を有意義に使える自信がないらしい。また、他人が働かずにぶらぶら遊んでいるのを見るのも我慢できないようだ。生活保護バッシングを見ればそれがいかに強い国民感情かよく分かる。進化心理学的にも、人間にはフリーライダーに対する道徳的怒りを遺伝的に身に付けているという。しかしそれ以上に、もし大衆にベーシック・インカムを配布したら堕落したという結果が出たりしたら、あっという間にこの議論は潰されてしまうのだろうと思う。残念なエビデンスが出てきてしまったときに、それでも理想を追いかけるパワーはどこから出てくるだろうか。

 私は全人口をアルファにすればいいと思っている。遺伝的な不公平をなるべくなくしたい。とくにIQの格差は取返しがつかないことが多いので、一定水準のIQは科学的に保証することができないかと思う。たとえば薬や注射の形でIQをドーピングすることができないか。遺伝子編集技術によってIQが決して一定以下にはならないようにあらかじめコントロールするのでもいいが、できるだけ本人が選択できる形が望ましい。IQによる格差が大きいのは現在の社会がそうだからにすぎず、AIの進化によって人間のIQなど取るに足りない陳腐なものに成り下がる可能性もある。その場合にはAIの恩恵を公平に享受できるようにすれば問題ない。いずれにせよ、科学技術を用いてIQの不平等を縮めることができると思う。本書でいえば全員をアルファにするのと同じ発想だ。
 余暇を十分に活用できるだけの能力があればいい。本を読んだり計算したり、学問や執筆、音楽、スポーツなどを享受できるだけのリソースを個人が持てればいい。その上で、必要に応じてアルファにも短時間の肉体労働をしてもらう。禁書はもちろんしない。科学的合理性は追求する。ソーマも実現できるならあったほうがいい。フリーセックスも悪くない。だが家族を持ちたい人がいればそれも否定できないだろう。

 本作では社会に対抗するのがシェークスピアしか読んでいない野人にすぎなかったが、もっと手ごわい知者ならば、モンドから譲歩を引き出すことができたのではないか。極論ではなく漸進的な改良をしていけばいいのではないかと思った。
 
 

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矢野利裕「町田康論」 ~近代的主体になんか興味ない  

 唐突に始まった矢野利裕シリーズだが、おそらく今回で一段落となるだろう。最後に読むのは群像新人評論賞受賞作である「町田康論」である。批評家としてのデビュー作である本論文の中に、矢野にとって重要なテーマが当然含まれている。私の読後の感想を最初に言ってしまうと、矢野は根っからのポストモダニストなんだなと思った。近代的主体とか、内面とか自我とか、そういったものを信用していない。ポストモダン的な感性・身体性を持っている。これはおそらく読書等によって身につけたものではなく、生まれつきなのだろうと思う。だから教育論である近著『学校するからだ』においても主体とか人格とか自我とかいうような言葉がまったく出てこない。その代わりに、より即物的な次元での「身体」という言い方が繰り返される。それがポストモダンなリアリティなのだろう。大事なことなので言っておくと、ポストモダンを地で行くような人たち(たとえば東浩紀や千葉雅也など)は、勉強の結果そうなったわけでもないだろうし、時代的潮流に適応してそうなったわけでもないのだと思う。たまたまそれが彼らの体質だっただけだと思う。体質によってその人の思想は規定される。矢野もまた東や千葉に似たポストモダンな身体性をもった批評家だといえる。

 そんな矢野が批評の対象とする人が近代的主体であるはずがない。町田康が書く小説には近代的な主体が登場しない。

 このように、町田作品における語り手は、統一的な内面を前提とした近代的な主体ではなく、ひたすらに言葉を駆動させる空虚な運動体である。 p31



 そういう小説を面白いと思う感覚が、矢野のその後の批評にも一貫している。矢野は当然「空虚な語り手」を肯定する。

 

ここに、近代的な自我を持った主体を前提としない、空虚な語り手を中心に置いた豊穣な文学の系譜が開かれる。



 矢野は内面が空虚であることを肯定する。そして、彼自身の批評のスタンスも言明される。

 僕自身もまた、常人には感じ取ることのできないものを言葉にしようという語り手のありかたを目指す。
 批評するとは、つまりは、言葉によって、他の人には見えなかった世界を、存在を、物語を、現出させるということである。だとすれば、その行為は社会的な水準にとどまるものではない。批評行為の本領は、あらかじめ存在する社会の事象を明らかにすることではない。文学のありかたと同様、批評もまた、現状の社会を超えていく地点を捉えなければ、致命的に物足りないのだ。 p45



 具体的に言えば、矢野は芸能を擁護する。芸能を擁護をするとどうしてもハラスメントも否定できなくなる。ハラスメントは社会の話であり、芸能は社会を超える何かである。だから矢野は「ハラスメントはいけない」という社会の言葉を一方では吐きながら、もう一方ではあくまで芸能を擁護し続ける。やれ松本人志は民主的だとか、ジャニー喜多川も民主的な教育者だったという論法を用いて。しかし本当のところはどうだろうか。近代的主体なるものをそもそも信用していない矢野が、「民主的」なる言葉を真面目に言っているとは思えない。意図的に社会の言葉を用いて読者を幻惑することを目論んでいるのではないか。無理なこじつけであることを承知の上でやっているのではないか。
 ポストモダンな身体性をもつ東や千葉はしばしば社会的に容認されない発言をして炎上している。だから矢野も同じことになってもおかしくないと思うのだが、そこは徹底したリスク管理によって未然に防いでいるのだろう。今回のジャニーズ性加害騒動においても、BBCの番組が出た後矢野は積極的にネットに文章を投下していた。もしそれをしていなかったら、『ジャニーズと日本』という著書のある矢野が批判の的になっていてもおかしくなかった。適時適切に社会の言葉を発することによって、東らが受けているようなダメージを上手に回避しているように見える。
 しかし、それはあくまで矢野の一面にすぎない。批評家としての矢野は社会の外にあるもののほうに常に惹かれ続けている。

 本論文には落語家である桂文楽の話が出てくる。

  文楽といえば、一言一句一呼吸違わない完璧主義者であり、同じ演目は、いつどこであろうとも完璧に再現していたと言われている。
 このように、自身の内面や主体性を措いたまま、ここにはないものを言葉にするという運動に徹する文楽の姿は、空虚な存在としての語り手にふさわしい。 p39



 これは矢野自身も真似して実践しているらしい。学校の授業をそのように行ったりしているそうだ。教師としても空虚な存在であろうとしており、筋金入りのポストモダニストである。

 大学人になってアカデミックな学問の世界で生きることも考えたが、資質的に自分には大学人は無理だと思った。というのも、大学院の演習のさい、誰もが同じような語彙で同じような思想を確認し合っていることに息苦しくなって以来、大学の世界はどうも敬遠してしまっている。 『今日よりもマシな明日』 p241



 大学的な語彙にも思想にも肌が合わなかったと言っている。体質的にマイノリティなのだろう。ポストモダンを地で行くような人間は多くない。

 実際、これまで大学生や社会人に向けて講義をする機会もあったが、あまりにも話が通じすぎてしまう気がした。もっと前提が共有されておらず、もっと話が伝わらない地点から始めないことには、自分の言葉はどんどん狭いほうへ向かってしまいそうだと思った。それならば、いまだじゅうぶんに社会性が育まれておらず、自分という存在がぐらぐらとしているような中高生と一緒になにかを考えているほうが、よほど学問の野蛮な魅力に触れているような気がした。 同上p242



 つまり、近代的主体として完成してしまったような大人と話していても不毛だと思ったということだろう。近代的主体を信用しない矢野から見れば、そんな大人よりも子どもたちのほうがよほど手応えのあるコミュニケーションの相手だったに違いない。(私もある時期、これ以上大人たちと付き合っても意味がないと思って子どもたちと付き合う仕事に転身したので、似たようなものかもしれない。)

 僕が≪芸能≫という観点から、文学業界なり批評業界なりに介入しようとするのは、現在の≪知識人≫然とした小説や批評において、≪芸能≫的な攪乱の意志が乏しいと思うからだ。現状に対する攪乱の意志が乏しければ、理念の言葉は、すぐに退屈な説教の言葉に堕してしまう。 同上p21



 ここで言明されているのは、矢野が批評を書く動機は「芸能」的なものを文学や批評の世界に混入させるためであるということだ。だから矢野が確信犯的に芸能を擁護してみせるのは当然なのである。



 以上で、noteとまたがって4回に渡って展開してきた矢野利裕シリーズも一段落ついたと思う。彼がどのような資質をもった批評家で、何を目論んでいるのか、そしてそれはどのような方法論やロジックによって遂行しているのか、ある程度見えてきたように思う。今回矢野の本をまとめて読もうと思った理由は、矢野がハラスメントについてどのように考えているのかを知りたいと思ったからだった。「ハラスメントはいけない」と言っているけれど、どこまで本気で思っているのか分からなかったので著作を調べてみようと思った。その結論としては、矢野にも社会的な面と脱社会的な面が共存しており、「ハラスメントはいけない」と言う矢野は社会人の顔をしたほうの矢野であり、芸能人たちに気前よく喝采を送るほうの脱社会的な矢野のほうは何も変わっていないということだ。そもそも統合された近代的な人格なるものに信を置いていないのだから、自分の中に二人の自分がいても何の問題もないのだろう。真面目なのか不真面目なのか分からないところのある矢野の言動の正体が少し分かった気がする。

 今後も矢野は芸能を擁護し続けるだろう。しかしこのご時世だから、それは難しいミッションになりそうだ。少し間違えたことを言えば社会的に容認されず炎上するだろう。楯のように社会の言葉を操りながら、トリックスターのように芸能の言葉を振りまいていくような批評のありかた。それは必要なものだと思う。矢野は何も芸能界を擁護したいだけではない。私たち自身もときに芸能的になってしまう身体を持っているし、身近にいる人たちもそうだ。芸能的な身体的交流によって私たちは仲良くなったり、恋をしたり、生きがいを感じたりしている。ハラスメントを恐れて芸能を否定してしまうと、このような身近な生きがいのほうも失われてしまいかねない。だから社会的な不寛容の視線に怯えつつも、芸能的な身体的交流を擁護する必要があるのだ。
 

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矢野利裕『ジャニーズと日本』 ~ジャニー喜多川は民主的な教育者だった?  

 率直に言って、ジャニー喜多川を礼賛した本と言わなければならない。200ページ超の紙面に対して、ジャニーズに対する批判的な文言が出てくるのは最終盤の2ページにすぎない。しかもそれはSMAP解散騒動に対するコメントであり、性加害問題に対するものではない。出版時(2016年)すでに最高裁の判決は出ており、矢野は結果を知った上で本書を執筆したことを別の記事で書いている。もし性加害問題を知らない読者が読んだら、本書を読んでもそれを知ることはできない。矢野が具体的にどのような文言で「批判」していたか見てみよう。

 その意味でジャニーズは、敗戦後の日本にもたらされた誇るべき文化である。しかしその誇るべき文化も、SMAP解散騒動を経て、揺らぎつつあると感じる。わたしたちが魅了されていた舞台は、抑圧のうえで成り立っていたのではないだろうか。 p235



 そして結語はこうなっている。

 戦後日本のショービズを支えたジャニーズに、最大限のリスペクトと批判を捧げる。 p235



 最大限のリスペクトが捧げられているのは本書を読めばよく分かるが、批判を捧げているようには読めなかった。しかも「最大限の批判を捧げる」と書いてある(「最大限の」は「批判」にも係ると解釈するのが普通だろう)。普通に考えれば性加害疑惑にも言及してこそ「最大限の批判」をしたことになるはずだが、そうはしなかったということだ。ただ、「おわりに」にはもう少し踏み込んだ表現がある。

 芸能にしても戦後日本にしても誰かを抑圧することで成立する華やかな世界など、もうまっぴらである。筆者は、ジャニー喜多川が本来目指したような、自由で、それぞれの個性が発揮されるような芸能文化を形成すべきときだと思っている。
 そのときジャニーズはその最大の批判先にも最大の参照先にもなりうるだろう。まったくもって、奇妙な、大きな存在である。 p235



 「最大の批判先」とは急に話が大きくなった。本文では何ら具体的な記述はないのに、最も批判されるべき対象になりうるとだけ述べている。予備知識のない読者には何のことだかサッパリ分からないだろう。はっきり言えば、上記のような記述ではジャニーズを批判したことにはならないと思う。ただ当時はどのライターもメディアもそういう雰囲気だったらしいから、矢野一人を責めても仕方ないだろう。

 さて、順番が前後したが、本書で述べられている主要な記述を紹介したい。要約すれば、ジャニー喜多川はアメリカ的で民主的な教育者だったということになる。

 ジャニーにとって芸能活動は、教育的な精神にもとづいたものである。
 ジャニーズ事務所が、アイドル育成とともにひとりひとりの人格形成を目指すことを標榜していることはよく知られている(以下略) p23



 ジャニーにとってエンタテイメント産業は、純粋無垢な少年達に「教える」、そして彼らを通して観客に「教える」という方向性を有している。ここで大切なのは、何を教えたいかだ。
 それは、民主主義的なアメリカ文化である。 p29



 ジャニー喜多川が民主的な教育者であるという見立ては、性加害騒動の最中にある今読むと強烈な違和感がある。しかし本書は一貫してその認識に立ってジャニーの功績を讃えている。

 ジャニーが戦後日本に持ち込もうとしていたのは、薄く陰った日常から逃れ、誰からも後ろ指を指されることのない、自由で解放的な世界を提供するおちう芸能のありかたである。
 それは、誰でも平等に生きられるという点で、民主的な意味をも帯びている。 p93

 

「誰もが輝けること」、「個性を発揮すること」。ジャニーズの役割とはなにか。それはすなわち、戦後日本の民主化を娯楽の面から支える、ということだ。 p232



 このようにエンタテイメントや芸能、あるいはスポーツのようなものに民主的な可能性を読み取ろうとするのは矢野の癖らしい。近著『学校とからだ』でも同様の主張が繰り返されている。サッカーは民主的だとか、松本人志は民主的だとか、あるいは芸能としての授業もまた、一方的な弁舌でありながらも民主的な何かなのだと矢野は言いたがっている。大衆的な娯楽の中に民主主義の気分を見出そうとする矢野の論法は、ほとんどこじつけなのではないかと私には思えてしまう。とても筋の良い主張には思えないが、矢野の思想の独自性はそこにあるし、批評家として、トリッキーな道化として、そういう主張をして見せることにはパフォーマティブが意味があるかもしれないし、それは面白い仕事なのかもしれない。

 さて、本書の主要な主張はすでに見た通りだが、もう一つ気になるテーマがあった。アイドルと「自我」の問題だ。話はフォーリーブズの時代まで遡る。当時競合だったアイドルグループの人気が落ちていく中、フォーリーブズだけは人気が落ちなかったという。その理由は他のアイドルたちが自我に芽生えていったのに対し、フォーリーブズだけはアイドルのままだったからだという。その話に続けて矢野は次のように言う。

 ここには、ジャニーズの、ひいてはアイドルの本質のようなものが示されている。
 すなわち、アイドルとは「自我」を表現する存在ではなく、観客やプロデューサーが求めるものを演じる存在だ、ということである。このようなアイドルの態度は、ともすれば本格主義的なアーティストの立場から批判されうる。
 しかし、現在から振り返れば、ジャニーズの強さとはむしろ、日常とは異なる世界観が貫徹されていることがある。(原文ママ)そこには、「自我」が入り込む余地はほとんどない。 p60

 

ジャニーにとって、アイドルとして生きるとは、あくまで演技者として舞台の上で振る舞うこと。逆に言えば、求められる役割が貫徹できなくなったとき、彼らはジャニーズのアイドルではいられなくなる。 p61



 私には、これらの記述が「ジャニーが民主的な教育者である」という主張とどのように矛盾なく共存しているのか分からない。矢野は「自我」を持たないアイドルをまったく否定していない。非日常の演技を徹底する作法にもシンパシーを感じているようだ。なにしろ矢野自身も教師として、授業を非日常のエンタメにするべく大袈裟な演技をしているというのだから。
 この後、ジャニーズはフォークソングは歌わず黒人音楽を歌う傾向があることについても同じ原理で説明されている。すなわちフォークソングは歌い手の「自我」を表現する必要があるジャンルだが、黒人音楽は「自我」が希薄だからだという。自我のないジャニーズには黒人音楽のほうが相性が良いというわけだ。
 なお、矢野はアイドルの「自我」の有無の是非について結論を述べていない。

 本書で気に留まった箇所は以上だ。まとめると、矢野はジャニー喜多川の民主的なあり方を高く評価する一方、ジャニーが所属するタレントの「自我」を基本的に認めないスタイルだったことについては評価を保留し、SMAP解散騒動における抑圧的なやり方は批判するが、性加害問題は無視したということになる。

 

 さて、現在の話をしよう。芸能の本質とは何なのかについて考えなければならない。矢野は文春への寄稿で次のように述べている。

 歌舞伎界や落語界なんかもそうですが、近代社会にはあるまじき世襲と徒弟制度の中で芸能は紡がれてきました。そういう自分たちとは違う世界で育まれた歌であるとか踊りであるからこそ、僕たちは魅了されているところがあります。良くも悪くも。コンサートや舞台に行って彼らを眺める目は、ある種、商品を見る目に近いところもあります。



 悪しき芸能界をすべて解体しようという物言いに対しては、そのような芸能に接する際の罪悪感や欲望を見ないふりする態度を感じます。表面的に健全化しても、芸能に拭いがたく備わっている罪深さ自体は解消されるものではありません。アイドルビジネスにおけるルッキズムも依然として残るでしょう。そのことをどう考えるのか。

 性犯罪もパワハラも当然のことながら防がなくてはいけないものです。ただ、芸能の論理そのものをなくす発想は、人間のいとなみや関係性をことごとく漂白していくことにつながります。そのことをどう考えるのか。



 芸能には人権と相性が悪い部分がどうしてもある。ファンと産業界による加害的な共依存関係もあるだろう。我々人間の欲望がそう簡単に変わるわけもないので、芸能の世界をきれいに浄化することは無理だろう。いかがわしさはどこまでも付いて回るに違いない。ただ、世間からの目は徐々に(急速に?)変わってきているので、その視線に応答する形で芸能界も変わっていくはずだ。個人的な感覚としては、アイドルも天皇もAIの自動生成で代用すればいいのではないかと思っているが、おそらくファンの人たちは生身の人間が演技に徹するところに感動したり萌えたりするのだろうから、まあ罪深いことである。
 ただ、上で矢野がいわんとしていることは芸能の世界だけに留まらない。我々が芸能人に向ける欲望と同種のものは身近な人たちに対しても向けられているだろう。芸能を否定することは日常的な人間関係を否定することにも繋がってしまうのだろう。そういう連続性を意識して考えていかなければならないと思う。

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