「毒親」理論に惹きつけられるわけ  

 「マインドブロックを解除すれば一気に人生が開ける!」という考え方がある。スピリチュアルや自己啓発で頻繁に見られるものだ。「盲点に気付けば人生が変わる!」という言い方もある。こういう考え方は人生の一発逆転を示唆する。「ひょっとしたら自分も大成功できるかもしれない!」という欲望を刺激される。この手の思想に惹かれやすい人は、一発逆転を願望せずにいられないような日常生活があるのだろう。しかし私に言わせれば、安易に一発逆転を期待してしまうような浅い思考回路だから日常生活がうまくいかないのである。

 苫米地式コーチングで「スコトーマ」と言うのは盲点のことだし、「アファメーション」というのはまさにマインドブロックを壊すための自己洗脳のことである。上記のパターンに完全に当てはまる。また、「毒親」思想というのもまったく同じパターンを持っている。「じつは親が悪かった!」という盲点に気付くことによってマインドブロックが破壊され、より自由で生産的な発想ができるようになるという思想である。そこにも一発逆転の欲望がある。両者は構造がそっくりなので、苫米地式コーチングに夢中になる人が毒親思想にも夢中になるのは何の不思議もない。

 毒親思想を否定するのはなかなか難しい。臨床心理学でもアダルト・チルドレンという概念が確立しているし、まったく荒唐無稽というわけではない。私たちの日常的な感覚で言っても、親の影響で無駄なこだわりを持つようになってしまったと思うことは多々あるし、「自分を変えるためには親をもっと激しく攻撃しなければならない」などと言われると、その可能性を完全に否定するのは難しいものがある。だから強く迫られると、やってみようかなという気になってしまうのも無理はないと思う。
 そこで参考にしたいのは、実際に毒親思想に則って生きている人たちだ。幸いなことにサンプルがいる。彼らを観察すれば、親が悪いと言って攻撃する人たちがどれほど自由で健全な心を獲得しているかがよく分かるだろう。

 これは私の観察に基づく個人的な印象論だが、やたらと毒親が悪いと強調する人たちは、統合失調症的な被害妄想に憑りつかれている人が多いような気がする。彼らの生きづらさの根本にあるのは毒親でもなく社会でもなく、自身の発達障害なのではないかと思う節がある。障害があるために他人の気持ちが分からず、人間関係でいつも辛い目に遭ったり仕事がうまく出来なかったりする。それが生きづらさの中心なのではないか。しかし障害というのはその人固有の身体的な問題であり普遍性がないし、障害と認めてしまうと一発逆転の夢を見られなくなってしまう。それではつまらないので、障害という物語を否認して、毒親という物語を生きたがるのだろう。自分の生きづらさの原因が無意識に刷り込まれた間違った信念なのであれば、まだ救いの余地がある。だからその物語は魅力的に見える。

 親を否定することは自己否定を伴うので、精神的に不安定になる。不安定どころか恐怖体験である。毒親思想を共有する集団のあの強固な情念は、自ら居場所を捨ててしまった人たちの恐怖によるものなのかもしれない。

 大川隆法の息子がYouTuberになり、生い立ちや家族関係などについて赤裸々に語っている。毒親問題に関心のある人はぜひ見てほしい。

三代目宏洋 YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCX_nNpl_WxGy17_Yl5zpTrQ

 大川家では幼少の頃から教義の勉強をさせられ、次期教祖としての英才教育をされてきた。さらに学歴志向の隆法氏の意向により、受験勉強も相当ハードにやらされたらしい。親子関係としては最悪の部類に入ると思う。しかし宏洋(ひろし)氏はこのように独立してやっている。元気そうだし、病んでいるようには全然見えないし、社会生活上の困難を抱えているようにも見えない。(教団との訴訟を抱えて大変そうではあるが、事務的な問題にすぎない。)要するに私が言いたいのは、どんな毒親環境であろうとも健全に成長する人はするのだということだ。いつまでも恨みがましく親の悪口を言ったりもしない。そんな必要がない。きっと世の中にはこういう人がたくさんいるのだろう。親子関係には深刻な問題があるが、自立して自分の生活をちゃんとやっている人たちだ。そういう人はあえて親の話を公言などしないので、あまり知られていないだけではないだろうか。

 では、毒親的環境のもとで生まれ育った人の中で、病む人と病まない人の違いは何か。先天的な気質・体質の違いだろう。障害の有無と言ってもいい。たとえば統合失調症者は、その親でなくても発症したのではないか。つまり私は、後天的な環境による心理的要因よりも、先天的な脳器質的な条件のほうが下部構造であり、それが決定的に影響しているのではないかと考えているのだ。

 だから私は毒親の物語を生きることを勧めない。それよりも自分固有のものの感じ方、受け取り方の癖を熟知し、それが日常生活に及ぼす不具合をなるべく緩和するように、個別具体的な対策を積み上げることを勧める。一発逆転の発想とはまったく正反対だ。いわば自らの「障害」を認め、それが「治る」ことを期待するのではなく、それと上手に付き合って生活する技術を覚えること。自分という特性に最適化されたオリジナルのライフスタイルを見出すこと。自分だけの「解」を見つけること。そういう方向性で生きるほうが幸せだと思う。

カテゴリ: 自己啓発批判

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会社の飲み会は勤務時間である!(「わたし、定時で帰ります」)  

 NBA注目のザイオン・ウィリアムソン。と言っても私の読者には知らない人が多いだろうから動画を貼っておく。



 この体格でまだ大学1年生である。ちなみに動画内でフリースローラインから踏み切ってダンクするシーンがあるが、それはかつての「神様」マイケル・ジョーダンがダンク・コンテストで見せた伝説のプレーだ。それを事もなげにやってのける大学1年生である。

 で、このウィリアムソンなのだが、ゆっくり歩くときの歩き方に大きな特徴がある。大きく肩を揺らしながら歩くのだ。右足を出すときに右肩が下がり、左足を出すときに左肩が下がる。見た目がいいとは決して言えないが、それは機能的は歩行法である。高岡英夫『究極の身体』に詳しいが、ナンバ歩きなのだ。それはエネルギー効率の良い歩行法だ。ウィリアムソンはその巨体を動かすために、なるべく体力を節約するためにああいう歩き方をしているのだろう。また、あの爆発的なパワーを生み出しているのは、筋肉量だけでなく、力を抜くべきところはしっかりと抜くことができているからかもしれない。

 さて、ドラマ「わたし、定時で帰ります」がいい感じなのだが、第2話ですごいシーンがある。会社の歓送迎会がお開きになったときに、その時刻までを勤務時間として記録をつける場面があるのだ。「超分かる!」と思った。歓送迎会は仕事である。私も常々そう思ってきた。業務だから仕方なく参加していた。にもかかわらずバカな先輩たちは調子こいてセクハラをしたり、権力的なコミュニケーションにのぼせ上っていた。途中で帰ってやろうかと思ったこともあるし、飲み会での不作法をきっかけにその後職場で話をしなくなった先輩もいた。会社の公式な飲み会というのは本当に勘違いの温床である。だからそのシーンには喝采を送った。

カテゴリ: エンターテイメント

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調子が悪いとコラダになってしまう (「居るのはつらいよ」の感想)  

 統合失調症者は調子が悪くなると心と体が絡み合い混沌としてしまう。体をコントロールできなくなってしまう。それを「コラダ」になった状態と言う。コラダはつらい。体の不調がそのまま心の不調となってしまうからだ。そして、コラダになってしまった患者をケアするワーカーのほうも、コラダにならなければケアできない。これはスタッフにとって大きな負担となる。

 ところで、恋をするとコラダになってしまう。自分の心と体が未分化の状態になってしまう。それは自我が脆弱な状態なので、恋をすると憂鬱になり、傷つきやすくなり、イライラしたりオロオロしたりする。統合失調症者にとって恋愛は事件であり、危機である。そもそも性的な接触をしようとしたり、されたりしたことをきっかけに発症するケースが多い。東畑いわく、恋は心の一番弱い部分でするものだという。非常によく分かる。
私はさらに付け加えたい。恋とは、自分の心の一番弱い部分によって好きな人の心の一番弱い部分を攻めることである。そんなつもりはなくても結果的にそうなる。恋する人は無防備になる。情けないほど丸裸だ。裸で体当たりするようなものだ。そんな恋の宛先にされた人が、それで動揺しないとしたら、よっぽど愚鈍である。恋は強い攻撃力をもつから、相手を動揺させずにはおかない。自らをコラダにするというリスクを取って、意中の相手をもコラダに引きずり込んでしまうのだ。

 気安く遊び感覚でセックスできる人たちは、さほど傷つかないからできるのだろう。コラダになっても自我が不安定にならない。あるいはコラダにならないままでただ技巧的に行為しているのか。

 恋愛でラクをして(何かをショートカットして)結婚した人は、子育てで失敗しやすいように思う。ちゃんとリスクを取らずに、予定調和的な結婚をした人。理屈をこねて結婚した人。コラダになることを恐れたまま親になり、子どもにもそれを受け渡してしまう。

 デイケアは「いる」ことが難しい人が「いる」ための場所である。ただいるということは案外難しい。居場所がある人はそんなことを考えもしないが、それが難しい人もいる。
 東畑はデイケアに就職した際に、ただ座っているように言われる。そして、それがケアの本質なのだということに徐々に気付いていく。私にとって個別指導塾も似たような場所だった。そこはケアの空間だと思っていた。私の仕事は機嫌よく、リラックスして生徒の隣に座ることだった。それが一番大事な仕事だと思っていた。勉強効率だけを考えたら誰も個別指導塾などには行かない。講師との人間関係にこそ価値があり、生徒たちは皆そこに何らかの期待をしてくる。ケアの現場によく似ている。

 「いる」ことが難しい人は、「する」ことを探す。「いる」のがつらいから、何かをしていたいのだ。暇になるのが怖いのだ。退屈とは「空虚放置」(國分功一郎)である。たとえば信号待ち。宙ぶらりんの状態で放置されること。かといって、暇つぶしで何かをやっていても、醒めれば飽きる。つまるところ、尻を落ち着けて「ただ、いる」ことができなければ、日々はつらいのである。
 私も勉強を教えるのは難しくないが、生徒と何気ない雑談をするほうがハードルは高いと感じる。それぞれの生徒の個性に合わせて共感的なコミュニケーションを成立させること。無口で不愛想な女子中学生を担当していたときは本当に困った。おしゃべりが続かずに「べ、勉強しよっか(汗)」と言って勉強に逃げてしまっていた。敗北感でいっぱいだった。ちゃんと一緒に「いる」ことができなければ、ちゃんと勉強を「する」こともできない。いや、表面的にごまかすことはできるのだが、長続きはしない。

 
 本書は傑作だと思う。著者の趣味がポストモダン哲学ということで、引用のセンスが光る。(というか私の趣味に合っている。)とくに國分功一郎の「退屈」や「中動態」の概念をケアの現場に適用しているところが何だか嬉しくなった。他にも広い教養が窺える。一読するのに時間はかからないが、また読み返したくなるので購入をお勧めしたい。

カテゴリ: 心の理論

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読書ノート『意味がない無意味』(千葉雅也)  

 雑誌などに寄稿した短めの文章を集めた本だ。ガチの哲学書ではないのでだいぶ読みやすいが、それでも言っていることは難解だ。ところで千葉のツイートは一際異彩を放っている。超然として抽象的であり、どこか遠くの方からすごい変化球を投げ込んでくるような感じがする。面白い視点なのだろうと思うが、私には掴み切れないことがほとんどだ。単著を読めば少しは千葉の思考に近づけるかもしれないと思った。



本書のはじめに道案内のためのテキストが用意されている。これは分かりやすくて助かった。引用していこう。

 哲学にも色々な分野があるが、私の専門は、人間や事物が「どのように在るか」の原理的考察、すなわち「存在論ontology」である。それはひじょうに抽象性の高い考察だ。その一方で私は、様々な具体的対象について―自分自身の無意識との向き合いという意味も込めて―批評を書いてきた。批評とは何だろうか。それは、何か具体的な「他なる」ものによって自分を揺さぶられる、という危機的な経験ではないだろうか。



 そうすると、私が関心を持っているのは、どちらかというと千葉の批評のほうなのだろう。存在論はまったく私の想像が及ばない世界だ。以前千葉は東浩紀との対談の中で、目の前のコップについて、これが本当に存在するかどうか「分からない」と言っていた。それが原理的な存在論哲学者の立場なのだという。東も驚嘆していたが私も驚いた。とてもついていけない。ただ、どうして千葉がそういうことを言うのかという一端は、本書にちらりと見える気がする。

 千葉はネトウヨやオカルトのような相対主義とポストトゥルースとをまったく別物と考えている。相対主義とは不可知の「真実」の周りにある無数の解釈の関係とされる。中心にある「真実」は理解しえないので、いくらでも解釈が可能である。陰謀論やオカルトなどが無数に乱立する。科学によるエビデンス主義者さえもこの場合はひとつの相対主義に過ぎないと千葉は言う。ただし相対主義者には共通点であり、それは「真実」の存在を仮定しているところだ。
 ポストトゥルースになるともっとラディカルであり、不可知の「真実」などもはやどうでもよい、そんなものは無視してよいことになる。存在するのは各々にとっての「事実」(端的な事実)だけである。「事実」とは、説明しようもなくすでに偶然存在しているものである。それはもちろん人によって異なる。千葉は「事実」を基礎に置いた哲学を考えている。そうすることによって、相対主義の弊害を克服できると考えているからだ。(多くのリベラル論者はポストトゥルースの現実を嘆いているが、千葉はどうやらそうでもなさそうだ。むしろ人はそれぞれの「事実」を生きていけばよいと言っているように見える。)

 本書は千葉の2016年までの仕事をまとめたものと位置づけられている。「行為」や「身体」について考えてきたと言う。象徴的なのはギャル男論だろうか。「頭空っぽ性」という概念を使ったりしている。行為をするためには頭を空っぽにしなければならない。それだけ聞くとホリエモンの「多動力」の話か?と自己啓発オタクたちが喜びそうだが、あながち的外れでもないのかもしれない。自己啓発は行動をエンハンスすることを目的としている。そのためには考えすぎてはいけない。思考をシンプルにすることによって、身体性を取り戻す。行為するためには身体性を強くしたほうがいい。その点では千葉の哲学と自己啓発は共通している。しかし、自己啓発にありがちな欺瞞を千葉は排除している。「思考をシンプルにして行為せよ」と言うときに、そのとき行なわれる思考放棄について、自己啓発本なら勢いでスルーするところだが、千葉はそのときに起こる現象を観察する。そこには無慈悲で無意味な切断がある。何かを選んで何かを捨てる。それは徹底的に理不尽な決断である。意味などない。ただ偶然に身を委ねている。そのように聞くと違和感を抱く人も多いだろう。ふつう人は合理的に判断して行動していると思っている。もちろんその通りだし、そうあるべきだろう。合理的に判断できることについては当然そうすべきだ。しかし、それでは行為ができなくなってしまう局面というのものも存在する。
 たとえばトロッコ問題。線路の上に人がいる。どちらの人を殺すのが倫理的かという問題なのだが、千葉ならおそらくこう答えるだろう。そんな局面に出くわしたら、考えなどしない。ぎりぎりの瞬間に手が勝手に動くのに任せると。
 たとえば職場で複数の男性社員から気に入られているとする。皆素敵な男性で文句はないが、そのうち一人を選ぶ理由がない。また、誰かを選んだら他の人たちとの関係が気まずくなりそうな気もする。いろいろ考えると結局誰とも付き合えなくなってしまう。こういうときもお行儀の良い正解などないのであって、理不尽に、テキトーに、一人を選んでよいのだ。

 可能性や潜在性といった概念に人は夢を見たがるものであり、これまでのリベラルの言説はそういう夢を語ってきたのではないかと思う。しかし、無限の可能性に溺れている場合ではない。いつまでもファンタジーに夢中になっているわけにはいかない。千葉の哲学は強く生きることを志向しているように見える。
 

カテゴリ: 思想

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東大英単語熟語「鉄壁」は知識の再整理に好適  

 You Tubeの受験動画で紹介されていた英単語帳「鉄壁」。私は存在すら知らなかった。なにしろ書店で見たことがなかった。しかしAmazonでは売っており、レビューも高評価だ。



 私も購入して読んでみた。なるほどこれはいいと思った。覚えやすい英単語帳とはどういうものかを考えて作られている。たとえばSECTION1は「重要な・ささいな」というテーマで単語を集めている。例を挙げよう。

vital 非常に重要な、生命の
vitality
vivid 生き生きとした
revive 生き返らせる
revival
essential 重要な、本質的な
essentially
essence
indispensable 重要な、必要不可欠な
dispense with ~なしですます
crucial 決定的な
significance 重要性
signify 意味する
significant
significantly
consequence 結果、重要さ
consequent 結果として生じる
cosequently その結果
matter 事柄、問題、重要である
count 数える、重要である
make a difference 重要である
trivial ささいな
triviality
trifle
common
commonplace
ordinary 普通の、通常の、ありふれた
extraordinary
extraordinarily
familiar
familiarity
emphasize 強調する
emphasis 強調、重視
emphatic
stress
underline
neglect
negligence
negligible
ignore
ignorant
ignorance
eminent 著名な
eminence 高位
prominent 目立った、有名な
priminence 目立つこと、卓越
primary 第一の、主要な
primarily
prime
tiny
slightly

 ここまででSECTION1だ。これらの単語を同じカテゴリとしてまとめて覚えておくこと自体に価値があると思う。どのセクションにどの単語を収録するかというところがすでに腕の見せ所だ。こうやって一緒に覚えることにより、関連語を覚えやすくなるし、忘れていても思い出しやすくなるだろう。
 また、頭に残りやすくする工夫が随所にみられる。語源を示した方が覚えやすそうな単語についてはそれが書いてある。

extraordinary exrta(外) + ordinary → 「通常から外れた」
prominent pro(前に) + min(突き出る) → 「突出した、目立った」

こんな具合だ。だが説明がくどくはない。あくまで暗記の補助として簡単に記載されているだけだ。
 また、単語のイメージをシンプルに表現した挿絵も多く、これが面白い。絵で覚えてしまうのも手だ。
 さらに、間違いやすいポイントをチェックするクイズがあり、知識を確認しながら進められる。セクションの終わりには簡単なテストがついている。正誤もしくは三択問題というシンプルな形式で50問くらいある。スピーディに記憶のチェックができる。

 Amazonレビューではボリュームが多すぎるという声もあるが、私が見たところはっきり大学受験レベルの単語だと思われる。too muchという印象は受けない。600ページ超あるので単語帳と分厚いが、ユーザーにとって使いやすい構成になっているので、案外スムーズに読み進められると思う。私は電車の行き帰りで2セクションずつ読めている。全部で50セクションあるが、思ったほど日数もかからないし、飽きずに興味をもって読めている。

 知識の再整理に好適だと思う。すでに知っている単語が多い状態で読むとリラックスして読める。一応意味だけは知っている単語について、挿絵でイメージを補強したり、関連語と紐づけたりする作業が楽しい。高校に入学すると学校で単語帳を配られるだろうから、それを一通りやってから、仕上げに「鉄壁」をやるのが良さそうだ。

カテゴリ: 文系ネタ

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